若い方はご存じかどうか知りませんが、戦争中、英語は「敵性語」と言われて積極的に排除されました。戦争が終わったのが、僕が小学校2年のとき。僕は鎌倉の公立小学校だったけど、5年生と6年生で英語の授業が加わりました。戦争が終わった反動で一気に欧米寄りに、という面もあったでしょうね。それこそ教師もシロウトで、「This is a pen」から始まるごく古典的な英語です。今、小学校に英語の授業を入れるとか入れないとか議論されていますけど、僕ら、実は小学校で英語を習っていますから。先を行っているよ(笑)。
僕は、あんまり語学は好きではなかった。でも、「This is a pen」レベルの小学校から、中学校に入ってみると授業は全部英語でしょ、まわりは外国人だらけでしょ、それで日本人の英語の発音がダメだって気づきましたから、もうちょっとしゃべれるようにしたいと思って、英語のスピーチ部に所属しました。そこもずいぶん正統的な教え方をして、シェークスピアの戯曲とか、「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーンのゲティスバーグ演説とかを暗記させるの。それで人前でしゃべらせるの。フレーズを覚えて、復唱して、脳に定着させるという、語学にもっとも適したやり方です。これが、僕と英語との初対面です。
オーストラリア留学時代に英語で苦労した思い出といえば、強いオーストラリア訛りくらいです。あいつら、A(エイ)のこと“アイ”って発音するんだもん。「Will you come here today(トゥデイ)?」っていうところを、みなさんニコニコして「Will you come here to die(トゥ ダイ)?」ですから。僕は、絶対にオーストラリア訛りには染まらなかった。ところがある日、幼稚園に通う娘がお絵かきしているとき「お前、何してるんだ?」って聞くと、「パイント(paint)」って(笑)。子供は順応性が高いなと。